飛鳥~平安時代、新年に官人らが天皇に拝礼する「元日朝賀」など重要な儀礼では、カラスや日月などを描いた7本の幢幡(どうばん)(のぼり)が大極殿の前に立てられた。そのルーツを考える講座「古代宮都の元日儀礼」が11日、東京で開かれた。
関西大学と奈良県明日香村が主催し、朝日新聞社などが後援する「かんだい明日香まほろば講座」の一環。関西大の西本昌弘教授(日本古代史)と井上主税(ちから)教授(日本・韓国考古学)が、それぞれの専門分野から迫った。
元日朝賀の記録で幢幡が最初に登場するのは、飛鳥~奈良時代の公式歴史書「続日本紀」の701(大宝元)年の記述だ。
藤原宮大極殿の正門前に烏(う)(カラス)と日・月、四方をつかさどる四神(青竜、朱雀、玄武、白虎)の7本の幢幡を立てたとある。2008年と16年には奈良県橿原市の藤原宮跡で計7カ所の柱跡が見つかり、調査した奈良文化財研究所(奈文研)が幢幡の跡と発表した。
西本さんは、隋時代の中国でも皇帝の行幸の際に7本の幢幡を立てた記録があるが、中心にあったのは皇帝を象徴する「黄竜」で、日本ではそれがカラスに置き換わったと指摘した。カラスは中国では日(太陽)を象徴するもので、対外的な国名として「日出(い)づる処(ところ)」を意味する「日本」を名乗ったのに合わせ、カラスをシンボルにしたと推測されるという。
井上さんは幢幡に四神や日月の像が描かれていることに注目。同じモチーフが描かれた朝鮮半島北部・高句麗の古墳壁画を検討した。高句麗の古墳では石室の天井中央に黄竜やハスの花を描く例があるものの、カラスが単独で描かれることはない。幢幡の中心に太陽の象徴としてカラスを置くのは、やはり日本独自の発想と結論づけた。
ディスカッションでは、儀式での幢幡の使用が701年より前にさかのぼるかが話題になった。
記録に見える最も古い元日朝賀は、「大化の改新」が進んでいた646(大化2)年。初の中国的な都として、現在の大阪市中央区で建設が進んでいた難波宮(なにわのみや)でのことだ。
西本さんは「中国的な儀式のための広場は、日本の宮都では難波宮で初めて設けられた。そこで元日朝賀が始まったのなら、その場に幢幡も立てられたのでは」と推定。今後の難波宮跡での発見に期待を示した。